家族との縁と転生


親孝行をし、兄弟姉妹・夫婦は仲良く、そして子供は愛情込めて育てることと説くのは、スピリチュアリズムも同様です。
ですが現実にはそれがままならない家族がいらっしゃいます。

  「親が親と思えない。受け入れられない」
  「どうしてもきょうだい姉妹と反りが合わない」
  「なぜか自分の子供がいとおしく思えない」

その理由はスピリチュアリズムの教えの中で見つけることができます。


始めに地上時代に(ナザレの)イエスと呼ばれた、高級霊の例を取り上げてみます。

スピリチュアリズムの始祖であるアラン・カルデックが著書の中で、イエスの家族関係について、このようなことを書いてらっしゃいます(ちなみにこれらの情報は霊媒を通じ、善霊や高級霊たちから受け取った通信が元になっています)

イエスと彼の兄弟たちは仲が悪かった、というよりも兄弟の方が一方的に、イエスに対して敵意すら抱いていたのだそうです。
彼らはイエスを「変わり者」扱いし、あのヨハネも「イエスの兄弟たちはイエスを信じていなかった」と述べています(ヨハネ 第七章 五)。
また、イエスの母親マリアも、母親の立場でイエスを気遣ってはいたものの、彼の仕事の価値や意義については認めてはいなかったようでした。

つまりイエスは他の家族からすると、まるで赤の他人のような、「鬼っ子」だったわけです。

イエスは人々の啓発活動が目的で、本来再び地上に生まれる必要がないほど、地上では最も進化した高級霊でした。
なので彼の言動が母や兄弟に理解されなかったのは当然です。
それは、兄弟たちがはるかに進歩が遅れた霊たちだったためです。

イエスとして地上に生まれ落ちて活動するために、彼は肉体が必要でした。
そして、自分の仕事が最もしやすそうな家庭を選んで転生してきたわけです。
自分と家族になる霊たちの成熟度の間に大きな相違があることも、事前に考慮してのことだったと考えられます。

もしも彼らの成熟度が赤ん坊と老人ほど違っていたら、赤ん坊には老人の思想や言動が理解できないでしょう。
むしろ、愛情や智慧においてまだまだ未熟な生まれたての赤ちゃん霊は、何事においても自分都合で解釈するでしょうから、よけい誤解にしてしまうはずです。

そうしてイエスときょうだい達の間には溝ができ、きょうだいたちはイエスの評判や能力が高まるにつれて、嫉妬や憎しみを覚えるようになってしまいました。

イエスのように立派な行いをする人間であっても、この世で血を分けた実のきょうだい同士であっても、誰であっても、関わる相手の霊性が未熟な場合はこのようなことが起きてしまいます。
ですが、あのイエスのこと、もしかしたらこのことも人々に知らしめてたいといった意図があったのかもしれません。

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ところで、今生で家族になる霊たちの多くが、『過去世で好意的な関係だった者同士』なのだそうです。
ですが、まれに「なぜか家族の中で一人だけ浮いてしまい、個性や価値観、趣味、どれを持っても他の家族たちと似通ったところがない」、という人たちがいます。

考えられる理由の一つは、ナザレのイエスのようなケースです。
高級霊が(霊的に大変進化した霊が)啓蒙活動をするために、その家庭に生まれる必要があった場合です。

次に考えられる理由は、『過去世』、つまり過去世での関係です。

過去世でも同じ家族に生まれたが、互いにいがみあって敵意や憎悪をもってその人生を終えた場合です。
その場合、肉体を離れたのち、まずは幽界に行き、そこでそのような振る舞いを悔やんだり反省します。
十分に反省できると、「あの人に罪滅ぼしをしたい」ですとか、「同じ試練に再チャレンジしてこの癖をクリアしたい」「(霊界の上のレベルに上がるために)あえて辛い経験を選んで自分を鍛えたい」と自ら高級霊や自分の守護霊に頼みます。

そうしてそのような課題や目標(カルマ)を抱えながら再び地上に生まれてきます。
その際、過去世でいがみあった霊たちともう一度同じ家族に生まれ、自分から選んだ試練に再び挑戦するのです。
すると最初はまた摩擦が起きたり、お互いにいがみ合うかもしれません。
ですがそこでひたすら辛抱し、神との約束を守るべく、最善を尽くして努力しなくてはならないのです。

また、何かの理由や目的のせいで、霊的なつながりも何もない見ず知らずの霊が、突然ある家族の中に生まれてくることもあります。
これが三つ目の理由です。

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このように、今現在の家族関係が良好でない場合、上記のような理由のせいである可能性が高いです。

その場合大事なことは、そのような対立やいがみ合いを、今回の生でしないよう、避ける努力をすることです。
過去世と同じ過ちを繰り返してはならないのです。
そうしなければ、霊界(もしくは幽界)に戻った時に地上で味わう苦しみの何倍も過酷なミソギを再び受けなくてはならず、また、この問題(カルマ)を完全に解決するまでまた地上に生まれ変わって苦労しなければならないからです。

とはいえ、理想では自分が憎む相手を愛せたり好きになれたら素晴らしいとは思いますが、実際には難しく、むしろその"常識"や"道徳観念"に従おうとすればするほど、かえって辛くなってしまう場合もあると思います。
ならば、「嫌で仕方がない」と言っている自分の心や心の痛みを無視してまで、本心では"嫌いな人"を無理に好きにならなくちゃいけない、ということはありません。

最初は、口論や意地悪、ケンカをしないように、言葉数は少なくても、初対面の人と接するように穏やかに会話できることを目指せば、それで合格と思います。
そしてそれができればいつかは、お互いに素直になれて仲直りをし、そして自然に仲良くなっていける日が来るかもしれません。

もしも、そんな私たちの辛抱や努力が報われなかった(相手に拒絶された)としても、それは相手の未熟さや努力不足=過失、です。
相手がそれに対してどう応対するかに関係なく、私たちが行った反省や努力は、後になって、何倍もの喜びや感激となって必ず報われます(今生でも報われますがその大きさは霊界でほどではありません)。

霊性の成長や進化には時間がかかります。
何事も結果を焦らず、諦めず、辛抱強く望むことが大切です。

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ところで、生前は仲が良かった家族も、死後しばらくして(幽界を旅立って霊界に移動すると)、もう二度と会えなくなる可能性が高いです。
それは、実は不満や思っていることを口に出して言わなかっただけですとか、計算とかお互いの利害関係が一致して仲良くふるまっていただけだったりと、お互いの霊格の進化の度合いが違う(霊の波動の周波数が違う)せい、です。

霊界ではほんの少しのごまかしや偽りも見逃されません。
純粋に愛し合っていなければ、少しでも互いの思いや愛情の深さにズレがあれば、『ダメなものは容赦なくダメ』ということになります。

が、それぞれの行く先(霊界の次元)は違っていても、霊性が高いほうが自分から低い霊に会いたいと望めば、再会は可能です。
ですが、低い霊の方がどれほど高い霊に会いたがっても、高い霊が低い霊に会いたがらなければ、再会はありません。
(他には低い方の霊の償いや改心のために、そうした方がいいといった高級霊の意図的な介入による場合もあります)

そのような場合、普通、高い霊が低い霊に会いたがることはないので(呼ばれて嫌がる霊もいるそうです)、事実上、死後の再会はほぼ不可能といえます。

同じことを言っている霊界通信はいくつも存在していますが、中でもスェーデンボルグの本のくだりはコンパクトにまとめられていてわかりやすいので、お借りして転載させていただこうと思います。


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スウェデンボルグの霊界からの手記 上巻 から
(現在はタイトルや装丁が改訂されて出版されています →エマニュエル・スウェデンボルグの霊界
(1巻〜3巻)



「この世の家族も精霊界ではバラバラに」


この世における不慮の災難などの時には、家族そろって精霊界に入ることがある(ケイ注 内容からすると精霊界とは、昇天後に行く霊界のことではなく、その前に留まる幽界でのことを指していると思われます)
こんなとき、家族は顔つきが似ている上、精霊界でも同じところにかたまっているので、この世では家族であったことがわかる。

だが、このような家族も精霊界での日を経るに従って、少しずつ顔つきにも変化が表れ、それに応じてバラバラに離れていくのが普通である。
このことは、友人、知人といった間柄でも同じことがいえる。

この世では同じ家族だったといっても、いまではもう顔つきがお互いにかなり違ってきている一団の霊たちが話し合っている。
人間だった時、父親だったらしい霊が言う。
「おまえはどこの団体にゆくのか?」
母親だったらしい霊が答えた。
「私が行こうとしている団体は、あなたの団体とは別のものです」
(ケイ注 本では「汝、いずこの団体へゆくや」と言う風にされていますが違和感があるので会話だけ現代風に直させていただきます)

精霊界を"卒業"した霊が霊界に行くことはすでに述べたが、いずれの霊も、もっとも自分の本性に合った霊界の団体に属して、それ以降の永遠の霊の生を送ることになる。
霊界には霊格の多様さに応じ、無数の団体(コミュニティ)があるのだが、いまのふたりの精霊のいった団体とは、この霊界の団体のことである。

息子らしい霊は答えた。
「僕はお父さんと同じ団体になりたいです。でも、はたして僕の希望が霊界に受け入れられるのか不安です」

娘の霊も言う。
「私はお父さんやお母さん、お兄さんとも別れて、他の団体へ行くことを望んでいます。なぜかと申しますとわたしには生前、みなさんよりも愛していた人がいたからです。 彼はまだ人間界にいるけれど、いずれ霊界にやって来て、私に会いに私がいる団体へと来ると思いますから」

まだいとけない幼児もいった。
「私はお母さんの霊と一緒にゆきます。 どのコミュニティであっても、お母さんが行く所についてゆきます」

この世にあった時、たとえ家族であったといっても精霊界(ケイ注 幽界)はまだしも、霊界で別々の団体に属するようになれば、もはや永遠に会うことはない。
そして、家族の場合では父と息子、母と幼児、そして娘は将来霊界にきたるべき人間時代の恋人と同じ団体にぞくすることを希望していた。
だが結局は全家族ともバラバラになり、再び会うことのない、別々の霊界の団体へといった。

いまの話を、この世の人情や常識から見ればいかにも悲しい話ととる人々も多いことであろう。
だが、これが霊界の掟なのだ。

霊界の掟を説明するため、少しばかり人間と霊の関係や、人間と霊の違いについて説明することにしよう。

人間はもともと霊界に属する霊と、自然界に属する肉体からできていることはもう何度も述べたとおりである。
それでは、人間をこのように二つに分けるとして、どの部分が霊でどの部分が自然界に属する肉体の領域に含まれるだろう。
これはつぎのようにいえる。

一口でいえば、人間の心の本性、心そのもののうちもっとも内面的なもの、本当の意味の智慧、理性、知性、内心の欲求といったもの、その人間を本当に心の底から動かしているものは霊の領域で、これらはすべて霊の働きなのだ。
これに対し、肉体はもちろん、目や耳、鼻、舌、体の感覚といった肉体的、表面的感覚はすべて物質界、自然界にそのもともとの住み家をもっている。

人間が肉体的に死に、霊(精霊、幽体、幽霊)となって霊界(精霊界、幽界)へいくと、その霊はもともとの霊そのものに次第になっていく。
精霊でも始めのうちは、まだ外部的感覚の残りかすや外部的記憶をもっているが、次第にこれらを捨て、元々の霊の姿になり、また霊的(身体)感覚が優れてくる。
もとの霊の姿とは人々にも分かりにくいかも知れないが、もし人が社会や人との関係をすべて捨てて、夜半自分の部屋で瞑想にふけり、自分の心の真の姿をのぞいたとすれば、これがその人のもともとの心の姿、霊の姿に近いといえよう。

人は世間にあるうちは、道徳、法律、礼儀、他人への顧慮、習慣、それに打算など網の目のような外面的なものに縛られ、あるいは知識のような表面的な記憶に災いされている。
しかし、霊界ではこんなものはすべて不要なばかりか、邪魔なものに過ぎない。
これを少しずつ捨て、元の霊の姿に帰るために、精霊界(幽界)はあるのである。

先ほど記した家族の場合も、精霊界へ入ったばかりの頃は、顔つきももっと似ていた。
しかし、精霊界で日を経るにしたがい、彼等は世間にいた時の家族のキズナという外面的なものを次第になくし、自分自身の本当の霊の姿にかえっていったから、今では元ほど顔つきも似ていない。
そして、それぞれの霊は霊界の別の団体のところに行き、もはや永遠に会わないはずだ。

父と息子、母と幼児がいかに同じ霊界の団体を希望していても、もう少し精霊界の日を経るに従って、いよいよ離れていくのは間違いないのである。



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